若冲と京の美術 ―京都 細見コレクションの精華― 2018年4月27日
あの伊藤若冲の《雪中雄鶏図》が、ついに福山で初公開されます。
会 期:2018年4月14日(土)~6月10日(日)
前期:5月20日(日)まで、後期:5月22日(火)から
※会期中一部展示替えを行います。
休館 日:月曜日 ※ただし、4月30日(月・休)、5月1日(火)は開館
開館時間:9:30~17:00 ※ただし6月1日(金)、2日(土)、8日(金)、9日(土)は19:00まで開館
観覧 料:一般 1,000円(800円) 高校生以下無料 *( ) 内は前売りまたは20名以上の団体料金
京都にある細見美術館は、大阪の実業家・細見良氏(初代古香庵、1901-79)にはじまる細見家三代のコレクションの展示施設として、1998(平成10)年に開館しました。その収蔵作品は、縄文・弥生時代以降の日本美術の各時代・各分野を網羅する優れたものばかりです。
本展では、その貴重なコレクションの中から、若冲の最初期の作品《雪中雄鶏図》と《糸瓜群虫図》をはじめとする15点を紹介するほか、本阿弥光悦や俵屋宗達の色紙、断簡、重文の《明恵上人仮名消息(井上尼宛)》、重文《山王霊験記絵巻》、重文《芦屋霰地楓鹿図真形釜》など約90点を展観します。
王朝文学に材を得た物語絵や室町時代の絵巻、桃山・江戸時代の風俗画、琳派の絵画、文人画、茶陶、茶の湯釜、書跡《「貫之集」巻下断簡〈石山切〉》など、京の美術をたっぷりとお楽しみいただけます。
今更ですが 伊藤若冲とは?
若冲の生涯
若冲は正徳6年2月8日(1716年3月1日)に京・錦小路にあった青物問屋「枡屋」「枡源」の長男として誕生。
若冲23歳の時に、父親である源左衛門が死去し、四代目枡屋(伊藤)源左衛門を襲名するも家業には、ほとんど興味を示さず、専ら画業に打ち込む。
家業以外にも、酒も飲まず、芸事もせず、生涯、妻を娶(めと)らなかったとされています。
枡源は、いわゆる問屋ではなく、生産者と仲買・小売の商人に商いをする場所を提供したり、それぞれの関係を調整・仲介する様な流通を営んでおり、彼らの関係を調整しつつ売場の使用料を徴収する流通業者であるそうです。桝屋は多数の商人を管轄していたらしく、商人たちから場所代を取れば十分な利益を上げることが出来たといいます。23歳のとき、父・源左衛門の死去に伴い、4代目枡屋(伊藤)源左衛門を襲名します。「若冲」の号は、禅の師であった相国寺の禅僧・大典顕常あるいは月海元照(売茶翁)から与えられたと推定される居士号であり、『老子』45章の「大盈若沖(冲は沖の俗字)」から採られたそうです。意味は「大いに充実しているものは、空っぽのようにみえる」。大典の書き遺した記録「藤景和画記」(『小雲棲稿』巻八)によると、若冲という人物は絵を描くこと以外、世間の雑事には全く興味を示さなかったようです。商売には熱心でなく、芸事もせず、酒も嗜まず、生涯、妻も娶りませんでした。若冲が家業を放り出したお陰で、家族や親戚、店の者達は、随分苦労した様です。そして、若冲40歳の時、家督を弟の宗巌に譲り、絵師の仕事に専念し、数々の名作を世に送り出しました。
最近の若冲研究により、隠遁後に町年寄を務め、錦高倉市場が商売敵に策謀により閉鎖されたところを、奉行所との長い折衝、各方面へ奔走した末に、奉行所から市場再開を公認させ、多くの人を救ったという史実が明らかにされています。
若冲は、当時としてはかなりの長寿で、寛政12年9月10日(1800年10月27日)に85歳で没。
若冲の作風
それまでの日本画壇に無かった斬新な技法を多様し、写実と想像を融合させ、 動物や植物をカラフルにリアルに写生し、さまざまな色彩と形態で多く華麗な作品を遺しました。
若冲の写実の画法は、19世紀末に誕生した西洋・新印象派の技法を200年も早く実践し、現代のデジタルアーツにも通じ、写実でありながらも幻想的な雰囲気を醸し出す作風は、新印象派よりももっと後の「シュルレアリスム」の画風との類似性も指摘されています。
また、若冲の絵画は裕福な家業の影響か、当時の最高品質の画絹や絵具を惜しみなく使用したため、保存状態が良く、展示される作品も、痛みが少ない状態で観ることが出来ますでしょう。
若冲生存中は、世間でも高い評価を受けていましたが、特に明治期に入って、忘れられた存在になりつつあった中、昭和期に入り、日本でも再評価され、最近は海外でも多くの国や地域で、非常に高い評価を受けています。